2019年3月7日(木) <第5205号>
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■■■■■■■■2019年も忘却に「抗う」■■■■■■■■
【1】<<埼玉の魅力>>
【2】<<川越の魅力「時の鐘」>>
【3】<<川越百景>>
【4】<<小江戸川越見どころ90観光コース>>
23471.司馬遼太郎さんは−。
氏を連れて大阪の御堂筋を散歩したことがある。
教えてもらうことのほうが多かった。
松尾芭蕉、近松門左衛門、石川啄木、太宰治…。
23472.『へいわ』をつなぐ。
<戦後はつづく>
沖縄が受けた大きな傷が癒えることはない。
もう二度と、同じ過ちを繰り返してはいけない。
4歳だった妹が動かなくなっていた。
砲弾の破片が腹部を貫通していた。
「岩の下に埋めなさい」。
父からスコップを渡された。
でも、涙は出なかった。
「仕方がないとしか思えなかった」。
極限の状態に置かれ、
かわいい妹の死にも感情が動かなかった。
− 続く −
23473.離婚は本来、夫婦間で決められるべき事柄だ。
離婚慰謝料は不倫相手が不当な干渉をした結果、
やむを得ず離婚したなどの事情があるときだけ請求できる。
23474.『へいわ』をつなぐ。
<戦後はつづく>
沖縄が受けた大きな傷が癒えることはない。
もう二度と、同じ過ちを繰り返してはいけない。
一家は砲撃を逃れようと、
さらに南部の糸満方面に逃げたが、
空いている壕はなく、石垣や木の下に隠れるしかなかった。
6月上旬、祖母が砲弾の爆風で死亡。
6月中旬には、父が集中砲火で崩れたとみられる巨石の下敷きになった。
その2日後、1歳だった弟が栄養失調で命を落とした。
− 続く −
23475.オトナノケンカニドウタイオウシタラヨイカ。
<3か条>
@アイテノハナシヲサイゴマデシッカリキコウ
Aハナシヲキクトキハアイテノカオヲミヨウ
Bジブンノキモチヲコトバデイオウ
23476.『へいわ』をつなぐ。
<戦後はつづく>
沖縄が受けた大きな傷が癒えることはない。
もう二度と、同じ過ちを繰り返してはいけない。
3人の遺体は、土中や崖のくぼみに埋めた。
「自分たちもどうせ死ぬなら、故郷で死のう」。
生き残った母や姉、弟と具志頭村へ向かう途中、
糸満市摩文仁の海岸で米軍の捕虜となった。
23477.<謝りなさい>としかりつける親が少なくない。
気持ちが伴わないのに『ごめんなさい』と言われると、
子どもは自分の心をだますことを覚え、その場しのぎで使うようになる。
23478.『へいわ』をつなぐ。
<戦後はつづく>
沖縄が受けた大きな傷が癒えることはない。
もう二度と、同じ過ちを繰り返してはいけない。
終戦から2年後、母らと一緒に、父ら3人の遺骨を見つけた。
妹の遺骨も「いつか捜しに」と気にかけていたが…。
29歳で沖縄に戻った頃には、埋めた場所は深い森になっていて、
分け入るのも難しくなっていた。
「埋めたところを知っているのは自分だけ。
生きているうちは見つけなければ」。
戦後70年を迎えた2015年、記憶をたどりながら、
ボランティア団体の協力も得て捜索。
八重瀬町の山中で、数センチの頭蓋骨のかけらと
食事に使っていたつぼを見つけた。
「長い間、迎えに来られなくてごめん。
これからはみんなと一緒にいられるよ」。
そう妹に語りかけた。
− 続く −
23479.「ハーフインダール・ハーシュマン指数」だ。
市場の寡占度を測る指標である。
業界内の全ての企業のシェアを2乗して算出する。
数字が大きいほど寡占度は高いことを示す。
最大は1社による独占状態で100%の2乗、1万となる。
− 続く −
23480.『へいわ』をつなぐ。
<戦後はつづく>
沖縄が受けた大きな傷が癒えることはない。
もう二度と、同じ過ちを繰り返してはいけない。
慰霊の日はほぼ毎年、平和の礎を訪れて
摩文仁の海岸を見つめる。
かつて砲弾の雨が降ったのがうそのように、
穏やかで真っ青な海を前に、
5人の娘や孫、ひ孫たちに恵まれた幸せをかみしめる。
沖縄が受けた大きな傷が癒えることはない。
もう二度と、同じ過ちを繰り返してはいけない。
− 続く −
− 明日(2019/03/08)は−『23481.日本企業は窮地に立たないと変革しない。』 −
<バックナンバー>
23461.巨額の富を成した<グレートファミリー>がいる。
23462.「若き日の成功」より。
23463.かつてアメリカは「禁酒法」を作った。
23464.一度解いた問題をじっくりと復習する大切さを忘れがちだ。
23465.異色の全寮制の中高一貫校が開校する。
23466.やがて年号がかわる。
23467.「日本人」とは何か。
23468.バイオテクノロジーが発展している。
23469.新たに医学部を開設した。
23470.『へいわ』をつなぐ。
<戦後はつづく>
沖縄が受けた大きな傷が癒えることはない。
もう二度と、同じ過ちを繰り返してはいけない。
1944年10月10日、那覇市が大空襲を受けた。
戦火は実家近くにも及び、45年3月頃から、激しい米軍の艦砲射撃に見舞われた。
− 続く −
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