2005年5月25日(水) <第1145号> 
 
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                    - 【130】日本の労務管理の父 -  
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 明治30年代の紡績業界は、劣悪な労働環境に身を置く職工の逃亡が相次いだ上に、職工の募集もうまくいかず、品質の向上が思うように実現できていませんでした。 
 
 こうした現状の改善を図るべく、後に日本の労務管理の父と呼ばれる武藤山治は、近代的な経営手法、ヒューマニズム・家族主義に基づく従業員の取扱い、政界や官界に頼らない独立主義を採用しました。 
 
 具体的には、武藤は「科学的操縦法」というマニュアルをつくり、これに全工場での従業員の動作、作業の標準を定めました。大阪・心斎橋や東京・銀座にサービスステーションをつくり、社名のロゴや意匠にも配慮しました。 
 
 また、女工哀史の時代に、福利厚生に気を配る労務管理を実施していたのであれば、従業員のやる気が増して、結果的に生産性が向上したのではないかとも考え、寮や保養施設、娯楽場などを完備した学校もつくりました。 
 
 さらに、社内のコミュニケーション改善、健康保険制度導入、福利厚生施設充実など人道的な労務管理を実践しました。 
 
 加えて、従業員のモラール(士気)を高めるための「精神的操縦法」や、会社を一家族とみなして協和的なものにするための「家族式管理法」も導入しました。労働運動にも理解を示し、1919年にワシントンで開かれた第1回国際労働会議にも使用者代表として武藤は出席しています。 
 
 1924年には政界に身を転じ、衆議院議員になりました。議員活動に限界を感じた後、福沢諭吉が創設して、当時経営難に陥っていた時事新報社の経営を引き受けました。 
 
 しかし1934年3月9日、武藤は時事新報社への出社の途中暴漢に襲われました。犯人はその場で自殺。銃弾5発を浴びた武藤は、病院に運ばれましたが、そのまま亡くなりました。 
 
 なお、武藤が心血を注ぎ、労務管理体制の改革を行った結果、日本を代表する企業となった某社は、しかし彼の死後70年を経て、経営不在のなか解体に至りました。  
 
<バックナンバー> 
 
【130】労働保険の強制加入の強化
 
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